あのとき、東京ベイららぽーとは
2005年08月27日
ららぽーとテニスコートの場所にあったゴールデンビーチ
現在のららぽーとテニスコートのある場所には、ゴールデンビーチという大きなプールがあった.船橋は、東京からもほどよい距離にあり、夏は東京などから大勢の人が訪れた.
1959(昭和34)年ころの海の家入場料は大人50円・小人40円だった.そして、1965(昭和40)年に、船橋ヘルスセンターの10周年を記念としてゴールデンビーチが作られ、当初の入場料はゴールデンビーチ・本館共通で大人250円小人150円だった.このゴールデンビーチという巨大な海水プールには船橋港から海水を取り込んでいたが、すでに水質は悪くなり始めていたため、巨大なろか装置を通し5万tの海水を取り込んでいた.
1960(昭和35)年4月には一之江IC〜船橋ICの京葉道路が開通したこともあり、当時は観光バスを使って来園することが多かった.最盛期はゴールデンビーチの入場者数は1日10万人を超えるほどの盛況だった.
1959(昭和34)年ころの海の家入場料は大人50円・小人40円だった.そして、1965(昭和40)年に、船橋ヘルスセンターの10周年を記念としてゴールデンビーチが作られ、当初の入場料はゴールデンビーチ・本館共通で大人250円小人150円だった.このゴールデンビーチという巨大な海水プールには船橋港から海水を取り込んでいたが、すでに水質は悪くなり始めていたため、巨大なろか装置を通し5万tの海水を取り込んでいた.
1960(昭和35)年4月には一之江IC〜船橋ICの京葉道路が開通したこともあり、当時は観光バスを使って来園することが多かった.最盛期はゴールデンビーチの入場者数は1日10万人を超えるほどの盛況だった.
2005年01月09日
2004年11月24日
2004年10月16日
あのとき、船橋ヘルスセンターの大滝すべりは
2004年08月28日
ホテルサンガーデンららぽーとのとなりの古い建物は何
ホテルサンガーデンららぽーとのとなりの古い木造二階建ての建物は何ものなのか.
実は、この建物は大倉喜八郎向島別邸(大倉財閥の創設者)の一部で喜翁閣という.
明治に東京墨田区に建築された建物を移築した.
移築されたいきさつは不明だが、いつからここにあるのだろうか.
過去の写真で見ると、船橋ヘルスセンターがあったころの1974(昭和49)年にはないが、ららぽーと建設が始まった1979(昭和54)年には、すでに移築されていた.
もう少し調べたところ、現在の場所に移設する前は、現在のファミリータウン1の場所にあったことがわかった.
船橋ヘルスセンターのボーリング場のとなりの場所だ.
船橋ヘルスセンターの取り壊しが終わったのと、ファミリータウン建設のために土地を売却したため、移設したものと思われる.
実は、この建物は大倉喜八郎向島別邸(大倉財閥の創設者)の一部で喜翁閣という.
明治に東京墨田区に建築された建物を移築した.
移築されたいきさつは不明だが、いつからここにあるのだろうか.
過去の写真で見ると、船橋ヘルスセンターがあったころの1974(昭和49)年にはないが、ららぽーと建設が始まった1979(昭和54)年には、すでに移築されていた.
もう少し調べたところ、現在の場所に移設する前は、現在のファミリータウン1の場所にあったことがわかった.
船橋ヘルスセンターのボーリング場のとなりの場所だ.
船橋ヘルスセンターの取り壊しが終わったのと、ファミリータウン建設のために土地を売却したため、移設したものと思われる.
2004年08月25日
あのとき、ららぽーと・船橋そごうは
ららぽーとウェストは、(株)そごうだった.
1830(天保元)年に初代十合伊兵衛(そごういへえ)が、創立の基となる大和屋を開業したのが始まりだ.
1877(明治10)年に大阪心斎橋筋に大和屋を移転して、十合呉服店と名付け、1940(昭和15)年(株)十合となり、1969(昭和44)年に株式会社設立50周年を迎えて(株)そごうとなった.
※船橋にこんな超豪華なシャンデリアが必要だったのだろうか.
しかし、2000年(平成12年)7月に東京地方裁判所に(株)そごうとそごうグループ各社計22法人が民事再生手続き開始申立して即日決定した.
そして、船橋そごうは消えていった.
ららぽーとにある新生銀行は、2000(平成12)年3月にスタートした新しい銀行だが、元は日本長期信用銀行だった.旧長銀の破綻の原因の一つにそごうの破綻があった.
預金保険機構(=国)は、旧長銀をリップルウッド社に譲渡する際に、そごう向け債権の引当金として1000億円をつぎこんでいる.
その後、買い戻す際に新生銀行の債権2000億円のために、さらに国民の税金を投入している.
船橋そごうの店舗は、大変立派な店舗と建物だったが、その4階にはつい最近まで豪華な役員室があったといわれるている.
役員とは、無謀な拡大路線を突っ走り、デパート王と呼ばれた水島前そごう会長のことだ.しかし、この部屋はほとんど使われることはなかったと言われる.
2000(平成12)年11月2日、民事再生法に基づき旧経営陣に総額112億の損害賠償額の査定を求めていた裁判だが、2000(平成12)年12月8日東京地裁は水島前会長ら17人の経営責任を認め、賠償額を約60億円とする決定をしている.
また、水島前会長は60億全額についての賠償責任を負う.
そして、2001(平成13)年5月25日、警視庁は債権者からの差し押さえを逃れる目的で資産を隠したとして、前会長の水島広雄容疑者を強制執行妨害容疑で逮捕している.89歳という高齢での逮捕は極めて異例だった.
1830(天保元)年に初代十合伊兵衛(そごういへえ)が、創立の基となる大和屋を開業したのが始まりだ.
1877(明治10)年に大阪心斎橋筋に大和屋を移転して、十合呉服店と名付け、1940(昭和15)年(株)十合となり、1969(昭和44)年に株式会社設立50周年を迎えて(株)そごうとなった.
※船橋にこんな超豪華なシャンデリアが必要だったのだろうか.
しかし、2000年(平成12年)7月に東京地方裁判所に(株)そごうとそごうグループ各社計22法人が民事再生手続き開始申立して即日決定した.
そして、船橋そごうは消えていった.
ららぽーとにある新生銀行は、2000(平成12)年3月にスタートした新しい銀行だが、元は日本長期信用銀行だった.旧長銀の破綻の原因の一つにそごうの破綻があった.
預金保険機構(=国)は、旧長銀をリップルウッド社に譲渡する際に、そごう向け債権の引当金として1000億円をつぎこんでいる.
その後、買い戻す際に新生銀行の債権2000億円のために、さらに国民の税金を投入している.
船橋そごうの店舗は、大変立派な店舗と建物だったが、その4階にはつい最近まで豪華な役員室があったといわれるている.
役員とは、無謀な拡大路線を突っ走り、デパート王と呼ばれた水島前そごう会長のことだ.しかし、この部屋はほとんど使われることはなかったと言われる.
2000(平成12)年11月2日、民事再生法に基づき旧経営陣に総額112億の損害賠償額の査定を求めていた裁判だが、2000(平成12)年12月8日東京地裁は水島前会長ら17人の経営責任を認め、賠償額を約60億円とする決定をしている.
また、水島前会長は60億全額についての賠償責任を負う.
そして、2001(平成13)年5月25日、警視庁は債権者からの差し押さえを逃れる目的で資産を隠したとして、前会長の水島広雄容疑者を強制執行妨害容疑で逮捕している.89歳という高齢での逮捕は極めて異例だった.
2004年08月24日
ザウスのルーツは船橋ヘルスセンターにあった
船橋ヘルスセンターには、大滝すべりというすごい滑り台があったが、プールのシーズンが終わると、プラスチックブラシを使ったスキー場となっていた.
1962(昭和37)年からブラシスキーを始めており、1963(昭和38)年に大滝すべりがオープンしている.
※左の写真は、昭和39年当時の船橋ヘルスセンターのプラスチックブラシのスキー場.
これが、のちに1993(平成5)年7月に開業した屋内人工スキー場ららぽーとスキードームSSAWS(ザウス)となっていく.
SSAWS(ザウス)は、建物の高さが100m、ゲレンデの全長が490mと桁外れの巨大なスキー場だった.
ゼネコンの風間組が、港区青山にも完全地下方式の屋内人工スキー場の計画や、東京ガズの液化天然ガスを利用したスキー場もあったが、バブル景気も終わり中止となっている.
また、中国の上海には、全長380m、高さ42mの屋内スキー場があるが、北京には、2008年北京五輪競技施設に向けて、全長565m、幅100m、高さ116mの、ザウスより巨大な世界最大の屋内スキー場を建設中である.
1962(昭和37)年からブラシスキーを始めており、1963(昭和38)年に大滝すべりがオープンしている.
※左の写真は、昭和39年当時の船橋ヘルスセンターのプラスチックブラシのスキー場.
これが、のちに1993(平成5)年7月に開業した屋内人工スキー場ららぽーとスキードームSSAWS(ザウス)となっていく.
SSAWS(ザウス)は、建物の高さが100m、ゲレンデの全長が490mと桁外れの巨大なスキー場だった.
ゼネコンの風間組が、港区青山にも完全地下方式の屋内人工スキー場の計画や、東京ガズの液化天然ガスを利用したスキー場もあったが、バブル景気も終わり中止となっている.
また、中国の上海には、全長380m、高さ42mの屋内スキー場があるが、北京には、2008年北京五輪競技施設に向けて、全長565m、幅100m、高さ116mの、ザウスより巨大な世界最大の屋内スキー場を建設中である.
2004年08月15日
2004年06月24日
2004年06月23日
船橋ヘルスセンターと入湯税と遊園地、
なぜ,船橋ヘルスセンターに遊園地ができたのか.
市町村が課税する税金に入湯税というものがある.今は客1人1日につき150円くらいだ.船橋ヘルスセンター誕生した,1955(昭和30)年の物価は,新聞月極330円,一部売り10円,銭湯大人15円,映画140円,タバコピース(10本)45円,ゴールデンバット(20本)30円,コーヒー50〜100円,ビール大瓶125円,そば30円,雑誌(中央公論)120円,レコード300円だった.船橋ヘルスセンターの当初の入湯料は120円で,内入湯税は20円相当だった.実は,船橋ヘルスセンター(朝日土地興業会社)と入湯税と遊園地には大きな関係があった.船橋の入湯税の話は,船橋の50万坪埋め立ての問題から発している.
当時の船橋は,漁業を中心とした貧乏な市だった.そこで,ららぽーとがある(船橋ヘルスセンター)場所を埋め立てて,そこで得た土地を使って企業誘致をすることを当時の船橋市長(高木)が考えていた.しかし,そこで暮らしている漁民の漁業補償という重要な問題があった.この補償費をどのように捻出するのかという問題である.
1954(昭和29)年10月には目標がつき,埋め立てが完成したときには,「15%の土地と5,000万円の補償をする.そして2,500万円は着工と同時に支払いする」ということが,漁業組合の幹部と話し合いがついた.
そうして仮同意書に調印するとともに,漁業組合の総会の議決を経て本同意書にかえるということになった.
1954(昭和29)年12月の市議会においても,全員協議会を開いた結果,埋め立て計画を県に申請するという結論に達した.これによって,50万坪埋立の申請が県に提出され,この申請に対する千葉県知事の諮問が始まった.1955(昭和30)年の7月11日付をもって行なわれ,1955(昭和30)年8月9日に諮問申請につき議決された.しかし,その後漁業組合にとの話し合いが難航した.1955(昭和30)年8月には,埋め立て地の15%と7,500万円の補償案が出たが流会となった.1956(昭和31)年6月には,1億2,500万円をもって総会にかけたが,またも流会となった.ついに漁民は,埋め立てをしようとする賛成派と,反対派の二派に分裂してしまった.
最終的には,賛成派が埋立期成会を作って漁民の意思をまとめ,1956(昭和31)年8月1日の総会において,「現金1億円は第一期工事着工と同時に,残りの2,500万円は工事完了後に出す」,また,「1956(昭和31)年度,1957(昭和32)年度にそれぞれ1,250万円の漁業振興費を交付する」ということで,組合の最後の結論が得られた.そして,ようやく1957(昭和32)年10月6日には細目協定が結ばれた.
埋め立てがいよいよ実施段階に入るが,実際に埋め立てするにあたって,当時の船橋市には金もないし,借金もできないという状況だった.多額の事業費の財源をどうするかということで,大きな壁に突き当たってしまった.
やむなく,埋め立て費用や補償費など一切の経費を朝日土地興業株式会社(船橋ヘルスセンター)に立てかえてもらって仕事を進めようということになった.
で,船橋市はどうしたか.船橋市は,朝日土地興業が作る船橋ヘルスセンターの,入湯税を免除してしまったのだ.船橋市が漁民に補償する1億2,500万円の補償金の支払いについて当時の船橋市長(高木)は,朝日土地興業が5,000万円,また船橋市が7,500万円の負担をすることを市議会に提案し,この市議会において了解をえた.
その返済方法は,入湯税の免除することによって,1957(昭和32)年4月分から1966(昭和41)年の3月分まで8年間分の入湯税7,500万円を免除するというものだった.つまり,朝日土地興業で一時立てかえておいてもらって,船橋市は入湯税を免除して相殺するという考えだ.このとき船橋市は,条例を設けて課税免除することにした.船橋ヘルスセンターは,1955年12月に開場したが,当初予定していた規模より大幅に改増築し,収容能力が増大して入湯者が増加していた.入湯税は客数に連動するため,これ以上入湯税免除することを無視してはならないという世論が徐々に高まってきていた.
1956(昭和31)年に朝日土地興業と締結したときには,当時の見込みでは,1200人/1日前後の入湯者があると考えていたわけだが,船橋ヘルスセンターは,その後二度三度と収容能力をふやしたということもあって,年数を減らして早目に解決したらどうかというような声が出てきた.
調査の上,返済期間を短縮すべきであるという意見が市政の論議の中心となり,未解決のまま1959(昭和34)年4月の市長および市議会議員選挙によって,本問題も頂点に達した.
この問題を違法であるとして,1959(昭和34)年6月定例市議会において,入湯税の問題については対策委員会を設けて検討することになり,学識経験者,議会代表者計14名を委嘱したが,なんらかの圧力があったためなのか学識経験者4名ならびに議会代表者2名が辞退してしまった.やむなく,議会代表の8名によって入湯税の諮問対策についての委員会が1959(昭和34)年9月14日に発足した.法的見解など,自治庁あるいは県地方課に委員を派遣して準備を整え検討して,ようやく1959(昭和34)年9月16日第一回の対策委員会を開いた.以後,数回にわたって対策委員会を開いた.千葉県からも,「実際やっていることが間違いである」ことの指摘を受けていた.
1959(昭和34)年9月12日,住民の監査請求によって,監査の結果に基づく措置請求が出された.これにより早期解決を迫られ,ようやく市議会に提案して協賛を得た.
船橋ヘルスセンターとしても,税金を払うのは避けたい.そこで選んだのは,遊園地などの営業の多角化だったと思われる.入場した者全員がおふろに入らないということも考えらる,というな状況を作り,入湯税そのものをぼかしておいた方がよかったからだ.
たとえば,5,000人入って,5,000人から全部取れるのか.入場券を発行しただけ税金が取れるかというとそうではない.それは,たとえば12才以上でないといけないということと,同時に,実際にあそこに娯楽施設があるので,おふろへ入らずに,その方に行って遊んだ場合には,これは入湯行為者にならない.入湯税の対象にならないということになると,実際に入湯した数というのは,その何割りになるのかというのが難しい.入湯税の対象人員というものをどう捕捉するかという問題になってくる.
※ 第033回国会地方行政委員会の議事録を参考にさせていただいた.
※ 朝日土地興業株式会社は,1953年4月に設立され
※ 1970年1月に,株式会社船橋ヘルスセンター設立(資本金5億円,100%三井不動産出資)
※ 1970年4月に,朝日土地興業株式会社と,三井不動産販売株式会社は合併している.
市町村が課税する税金に入湯税というものがある.今は客1人1日につき150円くらいだ.船橋ヘルスセンター誕生した,1955(昭和30)年の物価は,新聞月極330円,一部売り10円,銭湯大人15円,映画140円,タバコピース(10本)45円,ゴールデンバット(20本)30円,コーヒー50〜100円,ビール大瓶125円,そば30円,雑誌(中央公論)120円,レコード300円だった.船橋ヘルスセンターの当初の入湯料は120円で,内入湯税は20円相当だった.実は,船橋ヘルスセンター(朝日土地興業会社)と入湯税と遊園地には大きな関係があった.船橋の入湯税の話は,船橋の50万坪埋め立ての問題から発している.
当時の船橋は,漁業を中心とした貧乏な市だった.そこで,ららぽーとがある(船橋ヘルスセンター)場所を埋め立てて,そこで得た土地を使って企業誘致をすることを当時の船橋市長(高木)が考えていた.しかし,そこで暮らしている漁民の漁業補償という重要な問題があった.この補償費をどのように捻出するのかという問題である.
1954(昭和29)年10月には目標がつき,埋め立てが完成したときには,「15%の土地と5,000万円の補償をする.そして2,500万円は着工と同時に支払いする」ということが,漁業組合の幹部と話し合いがついた.
そうして仮同意書に調印するとともに,漁業組合の総会の議決を経て本同意書にかえるということになった.
1954(昭和29)年12月の市議会においても,全員協議会を開いた結果,埋め立て計画を県に申請するという結論に達した.これによって,50万坪埋立の申請が県に提出され,この申請に対する千葉県知事の諮問が始まった.1955(昭和30)年の7月11日付をもって行なわれ,1955(昭和30)年8月9日に諮問申請につき議決された.しかし,その後漁業組合にとの話し合いが難航した.1955(昭和30)年8月には,埋め立て地の15%と7,500万円の補償案が出たが流会となった.1956(昭和31)年6月には,1億2,500万円をもって総会にかけたが,またも流会となった.ついに漁民は,埋め立てをしようとする賛成派と,反対派の二派に分裂してしまった.
最終的には,賛成派が埋立期成会を作って漁民の意思をまとめ,1956(昭和31)年8月1日の総会において,「現金1億円は第一期工事着工と同時に,残りの2,500万円は工事完了後に出す」,また,「1956(昭和31)年度,1957(昭和32)年度にそれぞれ1,250万円の漁業振興費を交付する」ということで,組合の最後の結論が得られた.そして,ようやく1957(昭和32)年10月6日には細目協定が結ばれた.
埋め立てがいよいよ実施段階に入るが,実際に埋め立てするにあたって,当時の船橋市には金もないし,借金もできないという状況だった.多額の事業費の財源をどうするかということで,大きな壁に突き当たってしまった.
やむなく,埋め立て費用や補償費など一切の経費を朝日土地興業株式会社(船橋ヘルスセンター)に立てかえてもらって仕事を進めようということになった.
で,船橋市はどうしたか.船橋市は,朝日土地興業が作る船橋ヘルスセンターの,入湯税を免除してしまったのだ.船橋市が漁民に補償する1億2,500万円の補償金の支払いについて当時の船橋市長(高木)は,朝日土地興業が5,000万円,また船橋市が7,500万円の負担をすることを市議会に提案し,この市議会において了解をえた.
その返済方法は,入湯税の免除することによって,1957(昭和32)年4月分から1966(昭和41)年の3月分まで8年間分の入湯税7,500万円を免除するというものだった.つまり,朝日土地興業で一時立てかえておいてもらって,船橋市は入湯税を免除して相殺するという考えだ.このとき船橋市は,条例を設けて課税免除することにした.船橋ヘルスセンターは,1955年12月に開場したが,当初予定していた規模より大幅に改増築し,収容能力が増大して入湯者が増加していた.入湯税は客数に連動するため,これ以上入湯税免除することを無視してはならないという世論が徐々に高まってきていた.
1956(昭和31)年に朝日土地興業と締結したときには,当時の見込みでは,1200人/1日前後の入湯者があると考えていたわけだが,船橋ヘルスセンターは,その後二度三度と収容能力をふやしたということもあって,年数を減らして早目に解決したらどうかというような声が出てきた.
調査の上,返済期間を短縮すべきであるという意見が市政の論議の中心となり,未解決のまま1959(昭和34)年4月の市長および市議会議員選挙によって,本問題も頂点に達した.
この問題を違法であるとして,1959(昭和34)年6月定例市議会において,入湯税の問題については対策委員会を設けて検討することになり,学識経験者,議会代表者計14名を委嘱したが,なんらかの圧力があったためなのか学識経験者4名ならびに議会代表者2名が辞退してしまった.やむなく,議会代表の8名によって入湯税の諮問対策についての委員会が1959(昭和34)年9月14日に発足した.法的見解など,自治庁あるいは県地方課に委員を派遣して準備を整え検討して,ようやく1959(昭和34)年9月16日第一回の対策委員会を開いた.以後,数回にわたって対策委員会を開いた.千葉県からも,「実際やっていることが間違いである」ことの指摘を受けていた.
1959(昭和34)年9月12日,住民の監査請求によって,監査の結果に基づく措置請求が出された.これにより早期解決を迫られ,ようやく市議会に提案して協賛を得た.
船橋ヘルスセンターとしても,税金を払うのは避けたい.そこで選んだのは,遊園地などの営業の多角化だったと思われる.入場した者全員がおふろに入らないということも考えらる,というな状況を作り,入湯税そのものをぼかしておいた方がよかったからだ.
たとえば,5,000人入って,5,000人から全部取れるのか.入場券を発行しただけ税金が取れるかというとそうではない.それは,たとえば12才以上でないといけないということと,同時に,実際にあそこに娯楽施設があるので,おふろへ入らずに,その方に行って遊んだ場合には,これは入湯行為者にならない.入湯税の対象にならないということになると,実際に入湯した数というのは,その何割りになるのかというのが難しい.入湯税の対象人員というものをどう捕捉するかという問題になってくる.
※ 第033回国会地方行政委員会の議事録を参考にさせていただいた.
※ 朝日土地興業株式会社は,1953年4月に設立され
※ 1970年1月に,株式会社船橋ヘルスセンター設立(資本金5億円,100%三井不動産出資)
※ 1970年4月に,朝日土地興業株式会社と,三井不動産販売株式会社は合併している.
2004年06月22日
あのとき、船橋ヘルスセンターは(3)、(1974年→1979年→1984年)
1974(昭和49)年の船橋ヘルスセンター
[左上]ボーリング場・コマ館(大ローマ風呂・トルコ風呂・貸切家族風呂・岩風呂・蒸し風呂・大部屋・小部屋・ダンスホール・コマ大舞台)・中央館・こどもの国(的場)・大広間・電気風呂・二葉館・南国館・卓球場・舞踊団練習場・室内温泉プール(裸天国)・大喫茶パーク(南国サロン)・温泉ホテル
[左下]大遊園地・ゴーカート・モノレール・各国村(日本館・中国館・アメリカ館があったがこのころはバスの駐車場となっている)・ドッグレース
[右上]山一證券研修所・テニスコート・グランド・プール
[右下]ローラースケートリンク・大滝すべり(その下がスケート場)・プール・卓球場・ワニ池・芝生ガーデン
[写真外下]海中大プール(10万人プール)・流水プール(流れるプール)・飛行場(セスナがあったがこのころは京葉貨物線の建設が始まってなくなっている)・ゴルフ場(9コース)・ゴルフ場練習場・モーターボート場、海の家・結婚式場・遊覧船(海賊船)・モーターボート・水上スキー・潮干狩り
1974(昭和49)年と現地図との合成
1979(昭和54)年11月ころ.船橋ヘルセンターは取り壊されてしまった.ららぽーとの基礎工事が始まっている.
1984(昭和59)年10月
ららぽーとができあがっているが、ららぽーと3はない.船橋ヘルスセンターがなくなり、ららぽーとサンガーデンホテルの建設が始まっている、丸いコマ館はそのまま残っている.
※ 国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省より
[左上]ボーリング場・コマ館(大ローマ風呂・トルコ風呂・貸切家族風呂・岩風呂・蒸し風呂・大部屋・小部屋・ダンスホール・コマ大舞台)・中央館・こどもの国(的場)・大広間・電気風呂・二葉館・南国館・卓球場・舞踊団練習場・室内温泉プール(裸天国)・大喫茶パーク(南国サロン)・温泉ホテル
[左下]大遊園地・ゴーカート・モノレール・各国村(日本館・中国館・アメリカ館があったがこのころはバスの駐車場となっている)・ドッグレース
[右上]山一證券研修所・テニスコート・グランド・プール
[右下]ローラースケートリンク・大滝すべり(その下がスケート場)・プール・卓球場・ワニ池・芝生ガーデン
[写真外下]海中大プール(10万人プール)・流水プール(流れるプール)・飛行場(セスナがあったがこのころは京葉貨物線の建設が始まってなくなっている)・ゴルフ場(9コース)・ゴルフ場練習場・モーターボート場、海の家・結婚式場・遊覧船(海賊船)・モーターボート・水上スキー・潮干狩り
1974(昭和49)年と現地図との合成
1979(昭和54)年11月ころ.船橋ヘルセンターは取り壊されてしまった.ららぽーとの基礎工事が始まっている.
1984(昭和59)年10月
ららぽーとができあがっているが、ららぽーと3はない.船橋ヘルスセンターがなくなり、ららぽーとサンガーデンホテルの建設が始まっている、丸いコマ館はそのまま残っている.
※ 国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省より
2004年06月15日
あのとき、船橋ヘルスセンターは(1)
ららぽーとの前身は船橋ヘルスセンターだった.現在のショピングセンターららぽーとの場所は遊園地で、モノレールや、観覧車、汽車などがあった.また、そのとなりには、各国村というものがあり、ブラジル、フィリピン、トルコ、スイスなどの民家を模したものがあった.お風呂のデパートと呼んでいた4階建ての丸い建物が、船橋ヘルスセンター本体で、今のスーパー銭湯ららぽーとの湯常磐殿の場所だった.
※写真の丸い建物は、そのままよみうり日本テレビ文化センターになった.
船橋ヘルスセンターの丸い建物は、コマ館と呼ばれ、1階がお風呂で、大滝風呂・大風呂・蒸し風呂・トルコ風呂・電気風呂・酵素風呂などがあり、2階は家族風呂など、4階には500畳の大広間があった.その隣りには、室内温水プールの「裸天国」、大喫茶パークの「南国サロン」、ダンスホール(当時はマンボ大流行)などがあった.
また、大滝すべりという今でいうウォータースラダーがあり、一番長いのは100mを超えた大規模なものだった.その下には、スケートリンクになっていてアイススケート教室もおこなわれていた.また、夏には新日本プロセスの試合もおこなわれていた.その隣りには、ローラースケート場があり、日米対抗ローラーゲーム(東京ボンバーズ)を東京12チャンネル(テレビ東京)でテレビ放送していた.
この船橋ヘルスセンターのお風呂のために、3本のボーリングをしたといわれているが、この井戸は使われていない.現在のスーパー銭湯ららぽーとの湯常磐殿は温泉風の沸かし湯である(温泉風とは、水道水をセラミックを通しているため)
※写真は、船橋漁港からみた船橋ヘルスセンター.左側にボーリング場が見える.今のファミリータウンの場所と思われる.
船橋ヘルスセンターは、1955(昭和30)年2月にオープンし、当時としては東洋最大のレジャー施設をほこっていた.当時の入湯料は120円だった.1977年5月にクローズした. そして現在のららぽーと1が、1981年4月にオープンし、ホテルサンガーデンららぽーとが、1985年3月にオープンした.
※写真の丸い建物は、そのままよみうり日本テレビ文化センターになった.
船橋ヘルスセンターの丸い建物は、コマ館と呼ばれ、1階がお風呂で、大滝風呂・大風呂・蒸し風呂・トルコ風呂・電気風呂・酵素風呂などがあり、2階は家族風呂など、4階には500畳の大広間があった.その隣りには、室内温水プールの「裸天国」、大喫茶パークの「南国サロン」、ダンスホール(当時はマンボ大流行)などがあった.
また、大滝すべりという今でいうウォータースラダーがあり、一番長いのは100mを超えた大規模なものだった.その下には、スケートリンクになっていてアイススケート教室もおこなわれていた.また、夏には新日本プロセスの試合もおこなわれていた.その隣りには、ローラースケート場があり、日米対抗ローラーゲーム(東京ボンバーズ)を東京12チャンネル(テレビ東京)でテレビ放送していた.
この船橋ヘルスセンターのお風呂のために、3本のボーリングをしたといわれているが、この井戸は使われていない.現在のスーパー銭湯ららぽーとの湯常磐殿は温泉風の沸かし湯である(温泉風とは、水道水をセラミックを通しているため)
※写真は、船橋漁港からみた船橋ヘルスセンター.左側にボーリング場が見える.今のファミリータウンの場所と思われる.
船橋ヘルスセンターは、1955(昭和30)年2月にオープンし、当時としては東洋最大のレジャー施設をほこっていた.当時の入湯料は120円だった.1977年5月にクローズした. そして現在のららぽーと1が、1981年4月にオープンし、ホテルサンガーデンららぽーとが、1985年3月にオープンした.
2004年06月12日
不思議なバスの停留所
船橋ビビットスクエアの北側の道路を、競馬場側から海老川方面へいった、ホテル北側駐車場の前の京成バスの停留所の名前の意味がよくわからない.なんと「劇場前」となっている.が、どこに劇場があるんだ…
※写真はその停留所.後ろにららぽーとの湯常磐殿の壁が見える.
現在ここにはららぽーとの湯常盤殿があるが、実はここにはららぽーと劇場・よみうり文化センター・屋内プール・があったのだ.ららぽーと劇場は、客席まで延びた花道があった.松竹歌劇団(SKD)などの地方公園、ムーミン・ショー、などをおこなっていたらしい.また、1984(昭和59)年まで、いかりや長介の8時だョ!全員集合をおこなっていたのは有名だ.渋谷公会堂や、日本青年館でもおこなっていたのだ.あの舞台が回転するやつはららぽーと劇場と思って間違いない.ビデオで見てほしい.
その前は、同じ場所にあった船橋ヘルスセンターだ.実は、船橋ヘルスセンターの船橋劇場の前にも船橋劇場があった.大神宮裏にあり、船橋小唄や船橋温度などが唄われた.NHK 第5回紅白歌合戦にも出場した松田トシも来ていた.ブギウギのリズムがブームになっていたころだ.
だが、京成バスが、なぜ劇場前をそのまま残しているのかは不明だ.
現在の、ららぽーとの湯常盤殿は、2001(平成13)年06月02日にグランドオープンした.写真のこの辺が、ららぽーと屋内プールがあった場所だ.
※写真はその停留所.後ろにららぽーとの湯常磐殿の壁が見える.
現在ここにはららぽーとの湯常盤殿があるが、実はここにはららぽーと劇場・よみうり文化センター・屋内プール・があったのだ.ららぽーと劇場は、客席まで延びた花道があった.松竹歌劇団(SKD)などの地方公園、ムーミン・ショー、などをおこなっていたらしい.また、1984(昭和59)年まで、いかりや長介の8時だョ!全員集合をおこなっていたのは有名だ.渋谷公会堂や、日本青年館でもおこなっていたのだ.あの舞台が回転するやつはららぽーと劇場と思って間違いない.ビデオで見てほしい.
その前は、同じ場所にあった船橋ヘルスセンターだ.実は、船橋ヘルスセンターの船橋劇場の前にも船橋劇場があった.大神宮裏にあり、船橋小唄や船橋温度などが唄われた.NHK 第5回紅白歌合戦にも出場した松田トシも来ていた.ブギウギのリズムがブームになっていたころだ.
だが、京成バスが、なぜ劇場前をそのまま残しているのかは不明だ.
現在の、ららぽーとの湯常盤殿は、2001(平成13)年06月02日にグランドオープンした.写真のこの辺が、ららぽーと屋内プールがあった場所だ.